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2016年Aセメスター

現代日本を考える

コーディネータ・ナビゲータ 藤原帰一(法学部)
  • 社会/制度
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私たちの多くは、いま日本に生きている。その日本という社会や国家をどのように考えればよいのか。幕末維新期や大戦直後のように、かつて諸外国との対比のなかで日本を考えるアプローチが広く行われた時代があった。だが学術の専門化が進むなか、日本研究そのものが独自の領域として立ち現れ、より焦点を絞った比較研究は広く行われる一方、諸外国との対比のなかで日本を考えるアプローチは衰えたように見える。東京大学では英語によって日本に関する基本的な知識を講義する国際総合日本学というコースを設けている。この学術俯瞰講義は、そのコース運営の経験をふまえ、対比のなかから日本を捉えることのできる第一級の研究者を集め、改めて比較の中から現代日本を考えることが目的である。

国民の物語を取り去ると

藤原帰一(法学部)

私たちは、日本の物語に包まれて生きている。特に日本に限るわけではない。学者が何を言おうと、歴史は国民の物語として語られているからだ。研究者にとっての歴史が、過去の出来事について、仮説を立て、証拠を集め、事実を確定する作業であるとすれば、読者にとっての歴史は、過去から現在に至るまでの自分たちを語る物語である。そのような「自分たち」の物語の中でも、もっとも広く語られるのが、国民国家の立身出世にほかならない。不遇から身を起こした若者がひとかどの人物に成長するように、差別と蔑視から身を起こした国民が、一目置かれる国民国家に発展する。研究者から見れば、このような国民の物語は、個別の出来事を編み上げたストーリーだけに、嘘が目立つ。国民とは歴史的存在であり、所与の前提ではないとの反論もあるだろう。だが、その物語を自分たちの過去として記憶し、その記憶を通じて自己と社会のつながりを確める読者がいる限り、国民の物語は、いかにでたらめでも、なくなることはない。では、その物語を取り払って考えることができるだろうか。現代日本を考えるというテーマの前提として、国民の物語を取り去った日本について考えてみたい。考えるという言葉は形容でも誇張でもない。講師が知識を提供するのではなく、集まった人とともに考え、議論する場をつくりたい。

日本社会は「右傾化」していてるか?

北田暁大(情報学環)

現実政治において「保守的」とされる安倍政権が安定した政権運営をしているなか、路上やネットでの日本社会の「右傾化」が問題化されている。しかしまず「右傾化」とはどういうことで、実際にある種の「右傾化」が起こっているのか、起こっているとすればなぜなのか、といった論点を、経年的な社会調査データや世論調査などを参照しつつ、社会心理学などで問題化されている「旧来的差別」と区分される「現代的差別」のあり方を考察する。またそうした動向に「対抗」する社会運動が世論形成においてどのような役割を果たしているのか(いないのか)についても考察する。「右肩上がりの経済成長を終えた社会での不満の噴出」といった人口に膾炙する見解を批判的に検証し、現代日本の社会政治を分析する。

「クールジャパン」はクールなのか?

北田暁大(情報学環)

ここ数年行政主導で進められてきた「クールジャパン」推進、つまりマンガ、アニメ、ゲームなどのコンテンツを「日本独自」のものとして捉え、それを積極的に活用とする流れがある。しかし、諸外国での「クールジャパン」の展開は、日本におけるコンテンツ受容と乖離しており、「マンガ・アニメ」というお題目だけが独り歩きしている状況である。欧米圏・日本学での日本コンテンツ研究の水準も、日本国内の蓄積に比したとき、高いとはいえないのが実情である(印象論が多すぎる)。この講義では、日本の若者たちの趣味行動について行った調査のデータに基づき、若者たちにとっての「趣味」とはなにか、「オタク文化」的な

ものは、どのような形で受容され、どのような人間的・社会的関係を構築しているのかを見ていく。とりわけ「オタク」におけるジェンダー・ギャップは興味深い傾向をみせており、「クールジャパン」のなかに走る男女の断絶線が浮き彫りになっている。こうした「クールジャパン」の多層的なあり方に照準し、その社会学的意味を考察する。

東アジアにおける概念の循環――方法としての日本そして儒教 第一講

東アジアにおける概念の循環――方法としての日本そして儒教 第二講

中島隆博(東洋文化研究所)

この二回の講義では、東アジアにおける概念の循環を考えてみる。具体的には、第一講において、「方法としての日本」について考えてみる。竹内好がかつて「方法としてのアジア」という概念を提唱したが、それが現在の中国において、「方法としての中国」として変奏されて用いられ、いま熱い議論になっている中国的な普遍を考えるための重要な概念となっている。現代中国でのこうした議論を踏まえた上で、はたして「方法としての日本」は普遍を考える際になおも意味のある概念であるのかを考えたい。第二講においては、「儒教」を考える。今日日本が儒教の国であると考えている人は必ずしも多くないだろう。しかし、『論語』に関する書物は依然としてよく売れていることを考えると、事はそれほど単純ではなさそうである。近代における一世紀を越えた抑圧の後、中国では儒教が復興している。この奇妙な交叉の中で、わたしたちはいったい如何なる概念として儒教を考えているのだろうか。現代日本が問うことをやめてしまった問いを、現代中国を鏡としながらともに考えてみたい。

日本人はなぜ「古層」を語りたがるのか

苅部直(法学部)

日本人は、古代以来、儒教、仏教、西洋文明とさまざまな文化を海外から受容してきた。しかしその営みの根柢には、原初から現代にわたって持続する「日本的なるもの」が存在し続けている。ーーこうした言説は、いまでも日本文化論などでおなじみである。本講義ではこの言説の系譜を歴史的にたどって、その意味と限界を考える。

皇室制度をめぐって

苅部直(法学部)

日本の皇室制度は、ヨーロッパ諸国と同じような君主制と考えるべきなのか、それとも独自のものなのか。この問題をめぐる20世紀以来の諸思想をふりかえりながら、現在の政治体制における皇室制度の意味について考える。

3・11以降の民主主義論:戦後思想の流れの中で

宇野重規(社会科学研究所)

東日本大震災以降、日本の民主主義論には変化が見られるのだろうか。災害とその後の原発事故は、日本の政治システムの脆弱性を露呈した。これを機に、いわゆる「災後」が論じられる一方、「原子力ムラ」の政治的影響力や、事故に対する官邸の対応をめぐる議論が生じた。このことは、二〇〇九年に起きた民主党による政権交代の評価にも大きな影響を与えることになる。

他方、災害復興におけるゴミ処理や復興計画の策定もまた、あらためて民主主義を考える契機になった。この時期に盛り上がりを見せる直接民主主義やネット民主主義をめぐる議論にも触れつつ、現代日本の民主主義論を再考したい。

現代日本の保守主義:「保守」とは何か

宇野重規(社会科学研究所)

現代日本において、「保守」という言葉は明確な定義もないままに、日々新聞やネット上で用いられている。しかし、保守主義とは本来、18世紀イギリスの政治家であり思想家であったエドマンド・バーク以来の伝統を持つ思想である。そのような意味での保守主義は、現代日本に本当に存在するのだろうか。

明治維新と敗戦という二つの明確な歴史的断絶を経験した近代日本において、現行の政治体制を自覚的に保守し、発展させようとする動きには固有の困難さが付きまとった。とはいえ、現代日本に至る日本の保守主義の流れに、固有の「本流」がなかったとも言えない。その系譜を探ってみたい。

富める者と貧しき者:機会と結果の不平等

白波瀬佐和子(文学部)

戦後日本の奇跡的な経済復興から1980年代の一億総中流社会論、そして1990年代後半以降の格差・貧困の再確認へと、不平等問題は間接的、直接的に議論されてきた。本講義では、富める者と貧しき者について、その社会的意味を原因と結果の観点から考えてみたい。例えば、ネオリベラリズムの枠組みから、貧困に陥ることの自己責任論が活発に展開されたこともある。貧しいのは本人の責任なのか。富めるのは本人が優秀だからなのか。そこでは、機会と結果の不平等について考えることが重要になる。

多様な社会の実現:少数派の承認と他者感覚

白波瀬佐和子(文学部)

日本はかつて同質社会といわれたことがある。奇跡の経済成長を成し遂げることができたのは、成長という特定の目標に向かって社会が一丸となりうる文化的特徴があるからだ、とされた。しかしいま、多様さが重要視される。それならば、多様な社会を実現するために、鍵となる考え方は何なのか。多様な社会を実現するには、多数派に目を向け、耳を傾けるだけでは不十分である。少子高齢社会の不均衡な世代関係に目配せしつつ、少数派に対して自覚的であることと、他者感覚について考えたい。

外から現代日本を考える

藤原帰一(法学部)

シリーズの締めくくりに、改めて日本は何であったのか、何であるのか、そして「日本」という切り口から考える意味はあるのか、議論を行う。ここでの課題は日本の外から日本を見ることであるが、外から見ることは客観化ではあっても批判や否定とは限らないことに注意してほしい。

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